« 茶道のルーツ | トップページ | 原正市 はらしょういち »

2009年1月13日 (火)

長崎 殉教者列福式

統一教会がGPF大会に奔走しているほぼ同時期2008年11月24日に、既成教会(カトリック)では 187名の日本人殉教者のとむらい儀式を3万人を超す人数で挙行していた。

会場となった長崎ビックNスタジアム(爆心地そば)は あいにくの雨で、カッパを着ているところがGPFとかぶる。 会場の埋まり具合も、GPF級だ。苦笑

ただ、GPFは、外でNGOの寄席をやっていて、そちらに人数がいっちゃってたから、やはりGPFの方が集まりが上かな?。 東京と比べる私のセンスが疑われるが。。。

UCより権威的なのは、ちゃんとローマ法王ベネディクト16世の特使 前教皇庁列聖省長官ジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が招かれていた。

ちなみに私は、3歳の時からカソリック教会に通っていたし、UC入教直前も生野区のカソリック教会で活動していた。

それにしても、、、 ペトロ岐部って、誰やねん?。「ペドロ岐部と187殉教者列福式」と言われる、星伊藤とハッピー&ブルーみたいになっとるやないか!?。

一応この列福式はカソリック信者の20年来の悲願で、慶長8年(1603年)寛永16年(1639年)、つまり家康から3代目家光までの間に殉教させられた5人の司祭・修道者と 全国183人の信者で、老人から乳飲み子まで幅が広い。

この5人の中に、天正遣欧使節団の一人 ジュリアン中浦も含まれる。

ペトロ岐部・・・天正15年(1587年)豊後(大分県国東市)に生まれ、有馬のセミリオ神学校で育つ。慶長19年(1614年)マカオに追放され、4年後ローマを目指す。インドから徒歩で聖地エルサレムを巡礼し、ローマには元和6年(1620年)についた。

司祭に叙階され、イエズス会に入り、日本の信者を司牧するためリスボンから帰国。寛永7年(1630年)薩摩の坊津に上陸、寛永16年(1639年)江戸で殉教するまで、潜伏しながら全国を駆け回っていた。

隠れキリシタンは、信仰を隠す為に、聖堂ではなく “神社” の建築形式を取った。 日本三大キリシタン神社は、長崎に2箇所 枯松神社・桑姫神社、伊豆大島の あたあね大明神。 すべて日本家屋形式なので、見ただけでは判らない。

天草四郎の本名・苗字は 「益田」さんと言う。

長崎県生月島在住。

日本は、世界最高の基督教迫害の受難の歴史を持ち、世界最長の基督教迫害(250年以上)の歴史を持つ。 長崎には、踏み絵を踏まなかった末裔が3000人生きている。

|

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)