直江兼続 ②
直江は、坂本竜馬同様に、当時は評価されていない人だった。 坂本は、昭和40年代の小説にて見出され、知名度が爆発的に上がった。 それまでは、知られてない人だった。 直江を見直したのは、米沢藩9代目当主 上杉鷹山(ようざん)が藩の改革を迫られた時だった。(結果的に13代まで続く)
同じように、藩の財政が危機的になり、改革を迫られた鷹山は、直江の改革をお手本にした。 やった当事者にしか判らない 「責任心情」 というか、その重み・判断・苦渋の決断というものが身にしみたのだろう。
そもそも、直江が生きてた当時の藩士に評価されなかったのは、人物評価はされてはいたが、やはり 家康に逆らう手紙を書いて、結果的に新潟を追われ、山形の内陸地に 石高4分の1にされた判断ゆえに、「評価しずらかった」 というのが本当のところ。
でも、人徳が無いと、誰も改革や治水工事にはついていかないし、大阪冬の陣では、大切な財政の中から鉄砲を作り、訓練し、1度は1万2千の軍勢に攻め込まれるも、結果的には圧倒的に打ちのめし、豊臣方を撤収させた。
2代将軍・秀忠から 「今回の第一の手柄」 ということで、直江兼続は褒美の「一刀」を授かっている。 一度は失った徳川家からの信頼を勝ち取ったのである。
これは単純な 体勢のアベル・カインではない。 当時の世では、“お家存続” こそ、家臣の一番の願いであったのである。
当初は、直江は豊臣方の石田光成と意見の同意をみていたので、豊臣方として120万石の新潟・山形の大名になっていた上杉謙信死後の上杉家だったが、石田の軍勢の力を読みあやまり、関が原で豊臣方が簡単に負けてしまう。 そこで、直江は判断を迫られ、苦渋の決断で詫び状を家康に書いた、、、つまりお家存続を優先させたのである。
お家取り潰しは逃れたものの、山形だけの石高4分の1にされた。それでも、財政を立て直し、鉄砲隊を作った。 これが冬の陣の手柄につながる。
一見、忠誠の精神からすれば、一人の主人に仕えるのがいいように見えるが、直江の目で見たとき、そのまま豊臣が天下を取るよりも、家康の天下平定のビジョンの方が 国が安定するという判断があったらしい。 この部分は評価されていいのではないか?。 何より、家が続いた 「結果責任」 が素晴らしい。
直江は、最後まで凄かった。 自分の血統が絶えるのが分かっていたにも関わらず、跡継ぎを迎えなかった。 自分の家が途絶えてなくなれば(断絶)、自分の5千石を藩に返すことができ、財政を助けることができる。
しかし、死後すぐには 周囲から評価されることはなかった。
とにかく、武将 上杉謙信に惚れ込み、最後まで上杉家に忠誠を誓った人生であった。 1619年 12月 19日 没
2008年金融危機が起こり、この2009年は、より一掃 直江の精神が求められている。
| 固定リンク
コメント