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2009年1月28日 (水)

天理教中山みき還元祈願礼式

天理教教祖 中山ごん・・・じゃなくて、中山みき 還元 祈願 礼式!

本部教会20:00から 宮城徹主礼で始まったが、その5分前、なんと私に霊的な事が起こった。 本部教会礼拝堂の中で、帽子かぶったままでいたら、なんと 帽子をかぶったままなのに、その中の右頭頂部の髪の毛を誰かが引っ張った。「痛っ!」 って感じだった。

この霊的背景を説明すると、1月16日、文総裁が 「宗教還元祈願礼式」 「政治還元祈願礼式」をなされておられ、この2009年は最後のちるぱる4年間の初年度だが、宗教団体が神様の下へ帰れる時代背景らしい。

1月26日、旧暦としても新年を向かえ、文総裁の御生誕祭前に、どうしても日本の宗教団体の祈願礼式をしておかないといけなかったらしい。

そこで選ばれたのが、天理教。 これは神道系に所属するが、一応 冒頭に宮城教会長から 日本の仏教中心に、最澄・空海、鎌倉仏教(特に法華経)の説明があった。 なんだか、ここのブログの方が先行しているみたいで、優越感に浸りながら聞いていた。

本然・親鸞・道元、特に道元の説明がなされた。

天理教は、女性教主が国家迫害に耐えに耐えた イブの「新婦の立場」で国家迫害を超えたとして、その功労をUCは評価しているみたいだった。(他にも、大本も女性しか教主になれないらしく、次回は大本教の出口なおの祈願礼式の可能性がある)

どうしても迫害が厳しくて、日本軍閥に援助しないといけない立場にたたされたが、戦後は本来の天理教にもどり、1954年4月に?宗教団体の認可を受ける。 これがなんと、統一教会の成立の1ヶ月前なのだ!。 これには宮城教会長、大興奮!。

結局 中山みきは1983年?90歳で昇華されたみたいだが、これからは神様の摂理に直接貢献していただきたい。 

中山みき

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

中山みき

中山 美伎(なかやま みき、寛政10年4月18日1798年6月2日) - 明治20年1月26日1887年2月18日))は、日本宗教家天理教教祖。天理教の信者からは「おやさま」と呼ばれる。

[編集] 生涯

寛政10年4月18日の朝に、大和国山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の前川半七の家に生まれる。 前川家は浄土宗の檀家であったので、その感化を幼時より受ける。

浄土宗の僧侶になることを希望し、19歳の時に五重相伝を受ける。浄土宗の熱心な信者だった。 文化7年9月15日1810年10月13日)に中山善兵衞に嫁ぐ(この中山家を、天理教では「元の屋敷」と呼ぶ)。

天保9年(1838年)、まず10月23日に、長男秀司が足痛で苦しんだとき、修験者市兵衛を招き祈祷をおこない、みきみずから加持代となり、このとき、「元(もと)の神、実(じつ)の神」と自ら名乗る、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに乗り移り、天啓を受けたとされている。その神は、みきを「神の社」として貰い受けたいと申し出て、その申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば、中山家を滅ぼすと言ったという。10月26日になって、夫の善兵衛がみきを「神の社」となることを承諾すると、みきの苦痛がおさまったとされる(天理教では、この日を「立教の元一日」としている)。

みきは、天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。

次第にみきの教えにを従う人の数も増え、元治元年(1864年)、専用に勤め場所を建築。このころより各地に出向き布教を行いはじめるが、次第に迫害も増え、時には陣屋に呼び出され、神を祀るのを禁止されることもあった。

慶応3年1月、『みかぐらうた』の製作に従事、神楽のてぶりや鳴り物の稽古をはじめた。

慶応3年、京都神祇管領吉田家に願い出て、布教認可を得て、公認となり迫害は収まった。 しかし、明治維新後、吉田家の公認は無効となり、明治政府の弾圧が続く中の、明治20年2月18日没する。 その間、中山みきは、神命に従い、明治初年には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年正月から『おふでさき』書始め、かんろだいの雛形製作、ぢばさだめ(明治8年6月29日)など、天理教の基を築いた。 『みかぐらうた』『おふでさき』『泥海古記』『おさしづ』は、天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席飯降伊蔵のもと、天理教として布教が行われた(『おさしづ』のほとんどは、飯降伊蔵の口を通してのもの)。

夫善兵衛との間に、一男五女(中山秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かる(初代真柱中山眞之亮はおはるの三男である)。

教祖殿(きょうそでん)。天理教では、現在もここで生活しているとされる。

なお、天理教では人が没した場合、人間の発祥の根源「ぢば」へ帰ると解釈するため、「亡くなった」「死去した」とはせずに、「出直し」と表現するが、教祖の中山みきだけは「現身(うつしみ)を隠される」と表現している。 これは、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま一れつ人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」(天理教道友社「ようこそおかえり」 1985年刊より)という考えによるものである。 天理教本部では、中山みきは教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事が運ばれるなど、いろいろなお世話がなされている。

天理教は、10分の3献金だったから、信者自殺などが出て、幹部が疑問を感じ離教など、教団としてはいろんな波風を経験してきた。 で、、、本当のところはどうなのか?。この度もこの祈願礼式の為に宮城御一行が天理市に行脚してこられた。

日本の宗教団体で、教団の名前が市の名前になった唯一の団体、人口7万人、市内いたるところに宗教施設。 昔は「踊る教団」と言われてたらしいが、実際は掃除の団体。 市内いたるところで掃除してて、本殿・教祖殿・祖殿と その周辺は ちり一つ落ちてない清潔な教団、、、万物主管できている団体だ。

実は私も、小学生のとき 天理市に夏休みに「おじばがえり」を経験しており、町ぐるみで為に生きる精神状態で、掃除も方々でなされてて、スタッフの礼儀正しさに感銘を受けてた口だ。

今日は、私の所属する会社の責任者が天理教信者だから参加させていただいたが、なんとか私にも共助していただきたい。 同じ動機の兄弟姉妹が集ったのか、今日は本部教会に180名が大挙した。

えーーー、、、

いつものごとくにね、、、

私は 本部全体の代表マザーが中山みきへの訓読を始めると、相対できなくて、ZZZzzz・・・ 肝心の訓読内容を何も把握できなかった!。。。 恵みを 今日もこぼしました。。。

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