事故への 認識
教主がヘリコプター事故で死んだ場合、信仰の動機で 2つに分かれると思う。
「自分の因縁を取りたい」という仏教霊界・幸福願望ならば、「事故に遭うなんて、守られてない」「痛ましい、かわいそうだけど、何らかの因縁にぶちあたったんだな」 となる。
信仰の動機が、血統転換と重生・公的利益ならば、たとえ今回の事故で即死されてても、「眠るような老衰は、文総裁の趣味に合わないはず。。。一瞬で苦しみも無く 良かった」 となるはずだ。
それなのに・・・
教会は、図柄入りで、事故の伝わりずらい状況を たらたらと説明し、いかに “奇跡的に守られたか?” を強調している。私から言わせれば、あ ざ と い !。 意味が無い!。それを説明して、何になる?。
まあ、2歳と5歳のお孫さんの命が守られたのは、良しとしよう。 メシアの仕事は、種を残す事なのだから。。。
それにしても、マスコミも、ビジネス教主の最後が 飛行機事故 と、大見出しにしたかったから、チョンピョンに押しかけた様子が滑稽だ。 心の中では、がっくりきながら 記事を書いたのではないか?。 メシアに対して失礼な、、、「無事なら 会わせろ 会わせろ」なんて・・・
サムスンの会長も乗せていた 熟練ヘリコプター操縦士が、普通ならパニックになるところを、お互いに気遣いながらも、迅速に全員逃げおおせた その風景をつぶさに見て、「統一教会員になります」 とは、出来過ぎの話。
「伝道に、み言葉を語ってはいけない」 という、典型的な見本でした。
今日から、横浜で 第3回 世界平和美術祭典、、、 日本でも展示できたんですね。「展示会」じゃないから、ノルマは無いが、その分 入場料金がかかる。
責任者達は、こうず島で 儀式の式典だったようだ。
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